在原業平と付き合うのは幸せか。
平安の貴公子、そして日本きってのモテ男と言えば在原業平ですよね。あらゆる浮き名を残したことで有名です。
業平に対して、チャラチャラした印象を持っている人も多いのではないでしょうか。かくいう私もその1人でしたが、伊勢物語を読んでいるうちに、この男チャラいだけの男じゃないぞと思うようになりました。
今回の記事では、在原業平について造詣を深めていきたいと思います。
まずは、在原業平の境遇です。825年、第51代天皇平城天皇の子供である阿保親王の次男として産まれます。つまり、申し分がないほど身分が高い家系に生まれたということです。しかし皆さんも歴史の時間に習ったであろう「薬子の変(平城天皇と嵯峨天皇が都の場所について争った)」をきっかけに業平たちは臣籍降下、在原姓を賜ることとなります。これは業平が2歳の時の出来事でした。そのため悲劇の一族として扱われることもあります。
そして業平と言えば、『伊勢物語』です。この作品は、和歌とそれにまつわるエピソードが添えられている、いわゆる歌物語と呼ばれる形式ものです。全一二五段で形成され、一つひとつの話が短いため非常に読みやすいです。収録されている和歌が、業平の和歌ばかりであるため、主人公の「男」のモデルは業平だとされています。しかし作者がわからないことや作品名の由来がわかっていないことなどから、謎の多い作品でもあります。また大きな問題点として、話に出てくる「男」は全部業平を指しているのか?というものもあります。作品名に「物語」とついているので、もちろん全てが真実とは限りませんが、千年以上前に存在した貴公子業平に思いを馳せるために、そういった問題点にも触れながら、かなりゆったりと作品を捉えていきたいと思います。
業平の話をするにあたって、やはり人気のある藤原高子との話は外せません。高子は、藤原長良の娘であり、24歳の時に清和天皇に入内をします。そしてのちに国母になった人物です。業平と高子の間には17歳の年の差がありました。2人が出会ったとされているのは、業平が35歳高子が17歳の時に行われた豊明節会です。ここで、舞姫に選ばれた高子のことを当時蔵人だった業平が世話をしたのがきっかけでした。
この2人の恋のポイントは身分違いの恋であることです。高子の叔父である藤原良房は当時太政大臣まで上り詰めており、高子のことも政治のための駒として考えていました。具体的には、姪の高子を天皇の妻にすることで自分が政治に干渉し続けられる環境を整えるというものです。そういう意味で大切な高子にちょっかいをかけられるのはどうしても避けたいことです。まして臣籍降下された在原氏なんて言語道断です。
しかし2人はそんな身分差を飛び越えて、惹かれ合っていきます。
高子との恋が描かれているのは、三段〜六段になります。
三段は簡潔ではありますが、そこには確かな愛が窺える内容となっています。業平が高子に詠んだ和歌「思ひあらばむぐらの宿に寝もしなむひじきものには袖をしつつも(あなたが想ってくださるなら、荒れた家で寝ることさえどうってことありません。着物の袖を敷きながら待ちますよ。)」からは、あなたの愛さえあれば、他には何もいらないよという情熱的で、それでいて優しい業平の愛情を感じます。
素敵な雰囲気を醸し出していた三段ですが、続く四段では一気に話が動きます。密かに愛を育んでいた2人ですが、幸せはそう長くは続きません。高子の叔母にあたる順子の策略により、高子を隠されてしまったことで、物理的に引き裂かれることになってしまいました。業平は高子の面影を求め、かつて2人で過ごした場所に行きます。そこには、もちろん高子の姿はなく、ただがらんとした虚しい空間があるだけでした。業平は、一年前この場所で高子と過ごした記憶を呼び起こしては、目の前に広がる現実に打ちのめされるのでした。そこで詠んだ有名な和歌が「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして(この月はあの日の月と違うのだろうか、この春はあの日の春と違うのだろうか。私の心はあの日と何一つ変わっていないのに。)」になります。(とても好きな歌です。)
五段は飛ばして、有名な六段にいきます。「芥川」という呼称の方が馴染みがあるかと思います。
業平は、このままではどうしようもないと考え、なんと高子を盗み出します。(ロマンチック!)この道中の高子がとんでもなく可愛いんですよね。「草の上に置きたりける露を、『かれは何ぞ』となむ男に問ひける(草の上にあった露を、『あのきらきらしたものは何?』と男に尋ねた。)」という台詞がありますが、これは高子が温室育ちで草につく露のことすらも知らなかったことを表しているものです。真っ暗な夜道を必死に走って逃げる業平とその背に乗って初めて見る物たちに目を輝かせている高子。この対比によって、高子の無垢さが鮮明に描かれています。逃げ出した2人ですが、すぐに追ってきた高子の兄基経と国経に捕まってしまい(本文では鬼に喰われたと表現されている)、高子は宮中に連れ戻されます。2人の儚い駆け落ちはこれにて幕を閉じました。
この高子との話で見えてくる業平像は、口だけの男ではないということです。身分違いの恋であったため、気持ちが昂っていたと考えられますが、高子に言っていたであろう甘い言葉は決してまやかしではなかったこと、そして全てを敵に回してもいいと思うくらい高子が好きだったということがわかります。そして、さらに業平の本気度がわかる要素は、この時業平はすでに30代後半だったということです。つまりこの駆け落ち未遂は、若気の至りではないということを意味します。いくら出世にあまり頓着しない業平とは言え、ことの重大さはよく理解しているはずです。若い頃チヤホヤされてきた業平がここまでこの恋に執着したことに気持ちの大きさが表れているような気がします。ほんのひと時ではあったと思いますが、2人で過ごしたこの時間は、きっと無敵に思えてそして誰よりも幸せだったはずです。
一世一代の大恋愛、千年の時を超えてもその美しさを失っていません。
もう一点気になることがあります。本文に3度登場する「まめ」という言葉です。この「まめ」という言葉は、「誠実、真面目」などと訳します。1回目は二段で「まめ男(誠実な男)」、2回目は六〇段で「宮仕へいそがしく、心もまめならざりけるほどの(宮廷勤めがいそがしく、一心に愛情を注いでやらなかった時の)」、3回目は一〇三段で「いとまめにじちようにて(たいそう真面目で実直であって)」という形で出てきており、どれも男の性質を表しています。(先述したように)作者が分かっていない以上、業平自筆説を捨てきれませんが、第三者が執筆した仮定して考えると、この「まめ」という言葉に業平の真の人柄が潜んでいるように思います。また第三者と言っても、ここまで詳細に業平のことを知っているということは、かなり近しい人物であることは容易に想像がつきます。この作者が言う「まめ」という表現には信頼がおけそうです。(※六〇段は「まめではなかった」という否定の意味合いではあるのですが、「仕事が忙しくて」という理由がくっついていることから、かえって普段は「まめ」であったということが強調されています。)
またこの作者は、七七段で業平の歌を「いま見ればよくもあらざりけり。(今見ると良い出来でもなかった。)」というように言っているため、この作品の目的は決して業平賛美にあるわけではないことがわかります。このことも、この作者の「まめ」という表現の信頼度を強めています。
つまり現代を生きる私たちにとっては、誠実さと無縁に感じる業平ですが、当時の人々は業平に対して「まめ」な人であるという印象を抱いていたことがわかります。
業平が多くの女性と恋人関係を築いていたことは、当時の人々にとっては周知のことです。その上で「まめ」と表現しているのです。業平が何に対して「まめ」だったのかと言うと、もちろん伊勢物語の中の表現ですので、恋愛に対してかと思われます。多くの女性と浮き名を流してきた業平ですが、(流石に全てとは言いませんが)一つひとつの恋に対して誠実に向き合っていたのではないでしょうか。素敵な女性を見つけては、本気で愛します。失恋をした時には、失意の旅に出て本気で悲しみます。業平は恋に、女性に誠実なわけです。高子の話題の時にも書きましたが、業平はまさに有言実行の男、モテる男性が女性に言う「ずっと一緒にいようね」などの言葉を決してその場しのぎの言葉にはしません。
また業平は終わった恋を忘れません。一〇六段では、業平の代表歌と言える「ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは(こんなことは、不思議なことが多かった神代の昔にも聞いたことがありません。竜田川で唐紅に水をくくり染めにするなどとは)」が登場します。竜田川の水面に紅葉が浮かび、真っ赤に染まっている様子を詠んだ歌です。(素敵!)この話は、実際に竜田川に出向いて和歌を詠んだ説と宮中に参上した際、高子が所有する屏風に秋の竜田川が描かれており、それについて和歌を詠んだ説に分かれています。ここでは後者で捉えます。時期としては、高子が清和天皇に入内し陽成天皇を出産した後になるので、高子が30代前半で業平が50代前半の頃です。2人とも過去の恋愛を思い出にするには十分の期間を経ています。
こういった背景を踏まえると、先程の「ちはやぶる」の歌も見え方が変わってきます。2人の情熱的だった恋愛を唐紅に例えているとすれば、「私たちが愛を語らい合ったあの日々は神でさえ知らない、二人しか知らないことだよ」なんていう意味が含まれていると捉えてもいいでしょう。その場にいた周りの人たちには気づかれないように、2人だけの思い出を静かに懐かしむなんてまさに大人の恋愛ですよね。
このように業平は、昔の恋愛も大切に自分の中に保管しているのです。終わったからすぐ忘れるのではなく、過去は自分を形成するひとつのものだとして受け入れている姿勢こそ、業平が「まめ男」と呼ばれる所以なのではないでしょうか。そして別れた女に偉そうな態度を取らないあたりも人柄の良さを感じますよね。
在原業平と付き合うのは幸せか。結論、とても幸せだと考えます。付き合っている時は、決してないがしろにすること無く、大切に扱います。別れた後は、しつこくしたり嫌な態度を取ったりすることなく、美しい思い出にします。業平がモテる理由が分かったような気がします。こんな業平と恋人になった女性たちは、夢のような素敵な時間を過ごしたのではないでしょうか。令和に生きる私たちも平安の貴公子から学び得ることはたくさんありそうですね。
参考文献
清少納言ってかわいい。
平安時代の女流作家と聞けば、もちろん二大巨匠紫式部と清少納言が思い浮かぶ人が大半ですよね。今回は清少納言について語っていきます。
清少納言と言えば、藤原道隆の娘で一条天皇に入内した中宮定子に仕えたことで有名です。それと同時に『枕草子』を執筆したことも周知のことです。『枕草子』一段「春はあけぼの」なんかは、授業で暗記した人は多いと思います。
そんな清少納言は、よく社交的で勝気な女性と言われます。
当時女性はひらがな、男性は漢字を使うのが常識な時代だったにもかかわらず、清少納言は漢詩にまで精通し、男性陣に引けを取りませんでした。さらに仕えていた定子だけでなく、藤原道隆や藤原道長など時の権力者たちにも、その聡明さを買われひどく気に入られていました。平安時代きっての世渡り上手と言うことができるでしょう。そして清少納言自身、そんな自分に大きな自信を持っていました。自分に自信のある聡明な女性は、とっても美しいです。
さぁ、こんなところが世間一般的な清少納言像でしょうか。ここからは、私なりの清少納言像を語らせていただきます。
勝気で自信家な清少納言ですが、かわいい一面も持ち合わせています。私がそれを感じたのは『枕草子』において、元夫である橘則光と接する場面です。
清少納言が16歳、則光が17歳の時に2人は結婚しました。そして則長という息子ももうけました。しかし、『枕草子』の中に出てきている2人はすでに婚姻関係を解消した後です。
当時の婚姻制度は、妻問婚(男性側が女性の実家に通う婚姻制度)が主流です。結婚するときは、様々な手順を踏む必要がありますが、離婚は呆気ないもので、男性の足が妻の家から遠のけば自然と婚姻関係は解消されたものとみなされます。そしてこの夫婦も例外ではなく、清少納言に対して嫌気がさした則光側からフェードアウトしたと考えられています。
勝気な清少納言のことだから、そんな男なんてこちらから願い下げよ、なんて思ったのでしょうか。『枕草子』78段では、藤原斉信と仲が悪くなった際には、自分から和解をしようとはせず、なるようになるだろうという達観したスタンスをとっていました。
果たして則光に対しても同じスタンスだったのでしょうか。ここで『枕草子』78段と80段に注目してみましょう。
まずは78段「頭中将のすずろなるそら言を聞きて」をみてみましょう。
まずは概要から確認します。頭中将(藤原斉信)が、清少納言にまつわる根も葉もない噂を真に受け、清少納言を避けるようになったところから話は始まります。ある日突然斉信から、文が送られてきます。その中には、「蘭省花時錦帳下」と記されており、これは当時の女子が持つべき教養の範囲外である『白氏文集』からの引用でした。そして文には「末はいかに、いかに(後の句はどうだ、どうだ)」と続きます。漢詩の教養を持ち合わせていた清少納言は後の句を当然知っていました。しかしそのまま返すのはつまらないと考えた清少納言は、「草の庵を誰かたづねむ」と即興で和歌の下の句を作り、それを返事としました。下の句を送ったので、今度は斉信側が上の句をつけなくてはならないのですが、結局思い浮かばず、清少納言の完全勝利に終わったのです。
実はこの時斉信の側にいた則光は、夜明けとともにすぐさま清少納言に会いに来ました。そこで「いな、まことにいみじううれしき事の夜べ侍りしを、心もとなく思ひ明かしてなむ。かばかり面目ある事なかりき。(いやもう、本当に素晴らしく嬉しいことが昨夜ありましたので、落ち着かない気持ちで夜を明かしていまして。これほど誇らしいことはありません。)」というふうに嬉しそうに言います。離婚してもなお清少納言の活躍を自分のことのように喜んでいる則光はやはり性格の良いおぼっちゃんという印象を受けます。裏を返せば、素直でお人好しな人、裏表のない人…女性からモテるような雰囲気ではなさそうですね。
そしてこの章段にはもう一つ気になることがあります。それは清少納言と則光の関係を「兄人」と言い表していることです。「上までみな知ろしめし、殿上にも、〜せうととぞつけられたる。(帝までもご存じで、宮中でも、〜『きょうだい』とあだ名をつけられている)」と同段に記述があることから、宮中の人々は2人のことを「きょうだい」と認識しているということがわかります。歳が近く、そして若くして結婚•離婚した2人が持つ雰囲気は「きょうだい」のようだと周りに感じさせていたのでしょうね。上品なカップルというよりは、親しげでそれこそ兄妹のようなカップルであったことが伺えます。
次に80段「里にまかでたるに」をみてみましょう。
まずは概要です。当時の関白であった藤原道隆の死去を受け、次の権力者が藤原道長になるか、藤原伊周(定子と清少納言はこちらサイド)になるか、宮中が緊迫していた頃の話になります。道長とも交友があった清少納言は、道長サイドに寝返るのではないかと疑いをかけられる事態となりました。そのことに嫌気がさした清少納言は、一時的に宮中を退出し、実家に避難しました。そしてその居場所は人には知らせず、親しい間柄である源経房(『枕草子』を広めた人)や則光などの数人が知っているという状況でした。
先ほどの78段に登場した斉信は、道長サイドの人間であるということもあり、清少納言の居場所を知りませんでした。どうしても清少納言の居場所を知りたい斉信は、則光なら絶対に知っているだろうと確信していたため、しつこく則光を問い詰めました。
清少納言から固く口止めされていた則光は、最初は断固として口を割ろうとしませんでしたが、あまりにしつこく聞かれるため、笑いを堪えきれなくなるという危機を迎えます。そこで則光がその場を乗り切った術は、なんと目の前にあったワカメを口の中にパンパンに詰め込むという奇行でした。この行為からも、則光の一生懸命さ、人の良さが垣間見えますね。
後日、則光は再び斉信から問い詰められることとなります。(かわいそう…。)それを受け、則光は「宰相の中将、〜『いもうとのあり所申せ、いもうとのあり所申せ』と責めらるるに、ずちなし。(宰相の中将が、〜『清少納言のいるところを申せ、申せ!』とお責めになるので、どうしようもありません。」と清少納言に泣きつきます。そこで清少納言は、何をしたかというと、何も言わずにただワカメを紙に包んで送るという行動でした。この行動の意図は、当事者ではない私たちも流石にわかりますよね。前回乗り切ったように今回もこのワカメを口に詰めて黙っとけ、という意味が込められています。
しかしなんと則光はこの意味を理解することができず、「などともかくも御返りはなくて、すずろなる布の端をば包みて給へりしぞ。(なぜあなたからはどうこうともお返事がなく、なんの関係もないワカメを包んでくださったのか。)」と文句を言ったのです。これには清少納言も百年の恋も冷める気持ちです…。一言も言葉を発さず、「かづきするあまのすみかをそことだにゆめいふなとやめをくはせけむ(海に潜る海女のように姿を隠している私の住みかを、そこだとさえ絶対に言うなと、目配せをするように、ワカメを食わせたのでしょう)」とこれでもかと言うほど、分かりやすい、優しい和歌を書きます。しかし和歌嫌いの則光は読もうともせず、その場をそそくさと立ち去るのでした。すれ違う2人…しかし今回は則光の察しの悪さにイライラしますね。
この一件を機に、2人はなんとなく疎遠になってしまうのでした。
先に動いたのは則光です。こういう時ばかりは則光の素直さに助けられます。則光からの手紙の内容は次の通りです。「便なき事など侍りとも、なほ契りきこえし方は忘れたまはで、よそにてはさぞとは見たまへとなむ思ふ。(都合が悪いことがありましても、やはり兄妹と約束し申し上げたことはお忘れにならないで、よそでは、あれは兄妹の則光だとご覧になってくださいと思います。)」
ここで清少納言は、とある過去の則光の発言を思い出します。「おのれをおぼさむ人は、歌をなむよみて得さすまじき。すべてあたかたきとなむ思ふ。今は限りありて、絶えむと思はむ時に、さる事は言へ。(私のことを思ってくださる人は、歌を詠んで私にくださってはならない。全て仇敵と思います。今はこれが最後、絶交してしまおうと思う時に、歌を詠みなさい。)」という発言です。
清少納言はこの発言を明確に意識した上で、則光への返事として和歌を詠むこととします。「くづれよるいもせの山の中なればさらに吉野の川とだに見えじ(崩れて寄ってしまった妹背の山の中のような、崩れてしまった私たちの関係なので、兄弟の則光とは見ないつもりです)」という完全に拒絶の歌です。
しかし歌を贈るという行為自体が則光にとっては絶交を表すものであるにもかかわらず、和歌の内容も入念に絶交の意思を表すようなものである必要はどこにあるのでしょうか。
清少納言の和歌の意図は、絶交にはないのではないかと考察してみます。
考察の材料となりそうなものを2つ挙げていきます。
1つ目は、80段における「くづれよる〜」の和歌の後にくっついている清少納言のコメントです。「まことに見ずやなりけむ、返しもせずになりにき。(本当に見ないままになってしまったのだろうか、返事もしないで終わってしまった。」というものです。またその後則光が遠江(現在の静岡県)の権守になったことに関して、「にくくてこそやみにしか。(気に入らない気持ちのまま、それきりになってしまった。)」とも言っています。
このことから、清少納言は返事を待っていたということ、それきりにするつもりはなかったということが読み取れます。つまりあの和歌は絶交を意味する和歌ではなかったと言うことができます。『兄弟』と称される2人はきっとすごく仲が良かったでしょうし、何度も喧嘩をしたかと思います。あの手紙は、その戯れの延長のつもりだったのではないでしょうか。
2つ目は、95段「五月の御精進のほどに」における清少納言にまつわるエピソードです。概要は省略しますが、藤原伊周や中宮定子などが清少納言に和歌を読むように催促しますが、頑なに拒否し、結局最後まで歌を詠まなかったというものです。このエピソードから清少納言は和歌に苦手意識があったと言われています。苦手な理由は、和歌を詠む能力がないからではなく、父である清原元輔があまりに偉大な歌人であるため、過度なプレッシャーから詠むことができないということにあります。
和歌に苦手意識があり、身分が高い人たちに命令されても和歌を詠まなかった清少納言が、和歌を贈るという行為をしたこと自体に意義があると考えます。ここから、清少納言は則光に大きな信頼を抱いていたと読み取ることができます。
この2つの材料から、清少納言の「くづれよる〜」の和歌は、絶交の意図が含まれたものではなく、むしろ則光を信頼しているからこそのものであったのではないかと考えます。確かに、ワカメの意図を汲み取れなかった則光には心底腹が立ったと思います。もう絶交してしまおうと考えたかと思います。それでもこうやって『枕草子』にこの話を載せたことが、清少納言の後悔を表していると言えるでしょう。
ここからは超訳です。現代の女性においても、親しい男性に対してあえてキツい言葉をかけて、相手の反応を窺う試し行動というものがあります。相手が自分のわがままをどこまで受け入れてくれるのかを試すことが目的です。この試し行動は、相手に対して深い愛情を抱いているからこそ行なってしまうものです。清少納言の今回の行動は、この試し行動に近いものを感じます。則光に対して、複雑な愛情を抱いていたからこそ、また則光なら許してくれるだろう、今回も怒って文句を言いに来てくれるだろう、という驕りもあったからこそ、このような行動に出たのではないかと考えます。則光から返事が来なくてかなりショックを受けたのではないでしょうか。
このことに考えが及んだ時、清少納言はなんて不器用でかわいい女性なんだと思いました。
教養があり、男性とも対等に渡り合った清少納言ですが、恋愛に関しては不器用としか言いようがありません。しかし宮中の男性に言い寄られ上手くかわすというエピソードが多く存在しているのも事実です。このことは、関係を持っていない男性には上手く対応できるけど、夫婦だった則光に対しては本心と違うチグハグな行動をしてしまうと解釈することができます。今まで凜とした人物像をしていた清少納言が一気に近しい存在のような気がして愛おしく感じます。
清少納言はなんと魅力的な女性なのでしょうか。今回文章を書くにあたり、様々な資料を集めていく中で、清少納言のことがもっと好きになりました。愛情表現が下手な女性大好きです。今後も『枕草子』を読み進め、自分なりの清少納言像を創り上げていきたいと思います。
参考文献
はじめに
はじめまして、古町(こまち)と申します。
このブログでは古典文学、特に平安文学に関しての記事を書いていきたいと思います。
こういうふうに読めたら面白いなぐらいのゆるーい考察になりますのでご了承ください。