清少納言ってかわいい。

 平安時代の女流作家と聞けば、もちろん二大巨匠紫式部清少納言が思い浮かぶ人が大半ですよね。今回は清少納言について語っていきます。

 

 

 

 清少納言と言えば、藤原道隆の娘で一条天皇に入内した中宮定子に仕えたことで有名です。それと同時に『枕草子』を執筆したことも周知のことです。『枕草子』一段「春はあけぼの」なんかは、授業で暗記した人は多いと思います。

 

 

 

 そんな清少納言は、よく社交的で勝気な女性と言われます。

 当時女性はひらがな、男性は漢字を使うのが常識な時代だったにもかかわらず、清少納言漢詩にまで精通し、男性陣に引けを取りませんでした。さらに仕えていた定子だけでなく、藤原道隆藤原道長など時の権力者たちにも、その聡明さを買われひどく気に入られていました。平安時代きっての世渡り上手と言うことができるでしょう。そして清少納言自身、そんな自分に大きな自信を持っていました。自分に自信のある聡明な女性は、とっても美しいです。

 

 

 

 さぁ、こんなところが世間一般的な清少納言像でしょうか。ここからは、私なりの清少納言像を語らせていただきます。

今回の登場人物相関図

 勝気で自信家な清少納言ですが、かわいい一面も持ち合わせています。私がそれを感じたのは『枕草子』において、元夫である橘則光と接する場面です。

 

 

 

 清少納言16歳、則光が17歳の時に2人は結婚しました。そして則長という息子ももうけました。しかし、『枕草子』の中に出てきている2人はすでに婚姻関係を解消した後です。

 

 当時の婚姻制度は、妻問婚(男性側が女性の実家に通う婚姻制度)が主流です。結婚するときは、様々な手順を踏む必要がありますが、離婚は呆気ないもので、男性の足が妻の家から遠のけば自然と婚姻関係は解消されたものとみなされます。そしてこの夫婦も例外ではなく、清少納言に対して嫌気がさした則光側からフェードアウトしたと考えられています。

 

 

 

 勝気な清少納言のことだから、そんな男なんてこちらから願い下げよ、なんて思ったのでしょうか。『枕草子78段では、藤原斉信と仲が悪くなった際には、自分から和解をしようとはせず、なるようになるだろうという達観したスタンスをとっていました。

 

 

 

 果たして則光に対しても同じスタンスだったのでしょうか。ここで『枕草子78段と80段に注目してみましょう。

 

 

 

 まずは78段「頭中将のすずろなるそら言を聞きて」をみてみましょう。

 

 

 

 まずは概要から確認します。頭中将(藤原斉信)が、清少納言にまつわる根も葉もない噂を真に受け、清少納言を避けるようになったところから話は始まります。ある日突然斉信から、文が送られてきます。その中には、「蘭省花時錦帳下」と記されており、これは当時の女子が持つべき教養の範囲外である『白氏文集』からの引用でした。そして文には「末はいかに、いかに(後の句はどうだ、どうだ)」と続きます。漢詩の教養を持ち合わせていた清少納言は後の句を当然知っていました。しかしそのまま返すのはつまらないと考えた清少納言は、「草の庵を誰かたづねむ」と即興で和歌の下の句を作り、それを返事としました。下の句を送ったので、今度は斉信側が上の句をつけなくてはならないのですが、結局思い浮かばず、清少納言の完全勝利に終わったのです。

 

 

 

 実はこの時斉信の側にいた則光は、夜明けとともにすぐさま清少納言に会いに来ました。そこで「いな、まことにいみじううれしき事の夜べ侍りしを、心もとなく思ひ明かしてなむ。かばかり面目ある事なかりき。(いやもう、本当に素晴らしく嬉しいことが昨夜ありましたので、落ち着かない気持ちで夜を明かしていまして。これほど誇らしいことはありません。)」というふうに嬉しそうに言います。離婚してもなお清少納言の活躍を自分のことのように喜んでいる則光はやはり性格の良いおぼっちゃんという印象を受けます。裏を返せば、素直でお人好しな人、裏表のない人女性からモテるような雰囲気ではなさそうですね。

 

 

 

 そしてこの章段にはもう一つ気になることがあります。それは清少納言と則光の関係を「兄人」と言い表していることです。「上までみな知ろしめし、殿上にも、〜せうととぞつけられたる。(帝までもご存じで、宮中でも、〜『きょうだい』とあだ名をつけられている)」と同段に記述があることから、宮中の人々は2人のことを「きょうだい」と認識しているということがわかります。歳が近く、そして若くして結婚離婚した2人が持つ雰囲気は「きょうだい」のようだと周りに感じさせていたのでしょうね。上品なカップルというよりは、親しげでそれこそ兄妹のようなカップルであったことが伺えます。

 

 

 

 次に80段「里にまかでたるに」をみてみましょう。

 

 

 

 まずは概要です。当時の関白であった藤原道隆の死去を受け、次の権力者が藤原道長になるか、藤原伊周(定子と清少納言はこちらサイド)になるか、宮中が緊迫していた頃の話になります。道長とも交友があった清少納言は、道長サイドに寝返るのではないかと疑いをかけられる事態となりました。そのことに嫌気がさした清少納言は、一時的に宮中を退出し、実家に避難しました。そしてその居場所は人には知らせず、親しい間柄である源経房(『枕草子』を広めた人)や則光などの数人が知っているという状況でした。

 

 

 

 先ほどの78段に登場した斉信は、道長サイドの人間であるということもあり、清少納言の居場所を知りませんでした。どうしても清少納言の居場所を知りたい斉信は、則光なら絶対に知っているだろうと確信していたため、しつこく則光を問い詰めました。

 清少納言から固く口止めされていた則光は、最初は断固として口を割ろうとしませんでしたが、あまりにしつこく聞かれるため、笑いを堪えきれなくなるという危機を迎えます。そこで則光がその場を乗り切った術は、なんと目の前にあったワカメを口の中にパンパンに詰め込むという奇行でした。この行為からも、則光の一生懸命さ、人の良さが垣間見えますね。

 

 

 

 後日、則光は再び斉信から問い詰められることとなります。(かわいそう。)それを受け、則光は「宰相の中将、〜『いもうとのあり所申せ、いもうとのあり所申せ』と責めらるるに、ずちなし。(宰相の中将が、〜『清少納言のいるところを申せ、申せ!』とお責めになるので、どうしようもありません。」と清少納言に泣きつきます。そこで清少納言は、何をしたかというと、何も言わずにただワカメを紙に包んで送るという行動でした。この行動の意図は、当事者ではない私たちも流石にわかりますよね。前回乗り切ったように今回もこのワカメを口に詰めて黙っとけ、という意味が込められています。

 

 

 

 しかしなんと則光はこの意味を理解することができず、「などともかくも御返りはなくて、すずろなる布の端をば包みて給へりしぞ。(なぜあなたからはどうこうともお返事がなく、なんの関係もないワカメを包んでくださったのか。)」と文句を言ったのです。これには清少納言も百年の恋も冷める気持ちです。一言も言葉を発さず、「かづきするあまのすみかをそことだにゆめいふなとやめをくはせけむ(海に潜る海女のように姿を隠している私の住みかを、そこだとさえ絶対に言うなと、目配せをするように、ワカメを食わせたのでしょう)」とこれでもかと言うほど、分かりやすい、優しい和歌を書きます。しかし和歌嫌いの則光は読もうともせず、その場をそそくさと立ち去るのでした。すれ違う2しかし今回は則光の察しの悪さにイライラしますね。

 

 

 

 この一件を機に、2人はなんとなく疎遠になってしまうのでした。

 

 

 

 先に動いたのは則光です。こういう時ばかりは則光の素直さに助けられます。則光からの手紙の内容は次の通りです。「便なき事など侍りとも、なほ契りきこえし方は忘れたまはで、よそにてはさぞとは見たまへとなむ思ふ。(都合が悪いことがありましても、やはり兄妹と約束し申し上げたことはお忘れにならないで、よそでは、あれは兄妹の則光だとご覧になってくださいと思います。)」

 

 

 

 ここで清少納言は、とある過去の則光の発言を思い出します。「おのれをおぼさむ人は、歌をなむよみて得さすまじき。すべてあたかたきとなむ思ふ。今は限りありて、絶えむと思はむ時に、さる事は言へ。(私のことを思ってくださる人は、歌を詠んで私にくださってはならない。全て仇敵と思います。今はこれが最後、絶交してしまおうと思う時に、歌を詠みなさい。)」という発言です。

 

 

 

 清少納言はこの発言を明確に意識した上で、則光への返事として和歌を詠むこととします。「くづれよるいもせの山の中なればさらに吉野の川とだに見えじ(崩れて寄ってしまった妹背の山の中のような、崩れてしまった私たちの関係なので、兄弟の則光とは見ないつもりです)」という完全に拒絶の歌です。

 

 

 

 しかし歌を贈るという行為自体が則光にとっては絶交を表すものであるにもかかわらず、和歌の内容も入念に絶交の意思を表すようなものである必要はどこにあるのでしょうか。

 

 

 

 清少納言の和歌の意図は、絶交にはないのではないかと考察してみます。

 

 

 

 考察の材料となりそうなものを2つ挙げていきます。

 1つ目は、80段における「くづれよる〜」の和歌の後にくっついている清少納言のコメントです。「まことに見ずやなりけむ、返しもせずになりにき。(本当に見ないままになってしまったのだろうか、返事もしないで終わってしまった。」というものです。またその後則光が遠江(現在の静岡県)の権守になったことに関して、「にくくてこそやみにしか。(気に入らない気持ちのまま、それきりになってしまった。)」とも言っています。

 このことから、清少納言は返事を待っていたということ、それきりにするつもりはなかったということが読み取れます。つまりあの和歌は絶交を意味する和歌ではなかったと言うことができます。『兄弟』と称される2人はきっとすごく仲が良かったでしょうし、何度も喧嘩をしたかと思います。あの手紙は、その戯れの延長のつもりだったのではないでしょうか。

 

 

 

 2つ目は、95段「五月の御精進のほどに」における清少納言にまつわるエピソードです。概要は省略しますが、藤原伊周中宮定子などが清少納言に和歌を読むように催促しますが、頑なに拒否し、結局最後まで歌を詠まなかったというものです。このエピソードから清少納言は和歌に苦手意識があったと言われています。苦手な理由は、和歌を詠む能力がないからではなく、父である清原元輔があまりに偉大な歌人であるため、過度なプレッシャーから詠むことができないということにあります。

 和歌に苦手意識があり、身分が高い人たちに命令されても和歌を詠まなかった清少納言が、和歌を贈るという行為をしたこと自体に意義があると考えます。ここから、清少納言は則光に大きな信頼を抱いていたと読み取ることができます。

 

 

 

 この2つの材料から、清少納言の「くづれよる〜」の和歌は、絶交の意図が含まれたものではなく、むしろ則光を信頼しているからこそのものであったのではないかと考えます。確かに、ワカメの意図を汲み取れなかった則光には心底腹が立ったと思います。もう絶交してしまおうと考えたかと思います。それでもこうやって『枕草子』にこの話を載せたことが、清少納言の後悔を表していると言えるでしょう。

 

 

 

 ここからは超訳です。現代の女性においても、親しい男性に対してあえてキツい言葉をかけて、相手の反応を窺う試し行動というものがあります。相手が自分のわがままをどこまで受け入れてくれるのかを試すことが目的です。この試し行動は、相手に対して深い愛情を抱いているからこそ行なってしまうものです。清少納言の今回の行動は、この試し行動に近いものを感じます。則光に対して、複雑な愛情を抱いていたからこそ、また則光なら許してくれるだろう、今回も怒って文句を言いに来てくれるだろう、という驕りもあったからこそ、このような行動に出たのではないかと考えます。則光から返事が来なくてかなりショックを受けたのではないでしょうか。

 

 

 

 このことに考えが及んだ時、清少納言はなんて不器用でかわいい女性なんだと思いました。

 教養があり、男性とも対等に渡り合った清少納言ですが、恋愛に関しては不器用としか言いようがありません。しかし宮中の男性に言い寄られ上手くかわすというエピソードが多く存在しているのも事実です。このことは、関係を持っていない男性には上手く対応できるけど、夫婦だった則光に対しては本心と違うチグハグな行動をしてしまうと解釈することができます。今まで凜とした人物像をしていた清少納言が一気に近しい存在のような気がして愛おしく感じます。

 清少納言はなんと魅力的な女性なのでしょうか。今回文章を書くにあたり、様々な資料を集めていく中で、清少納言のことがもっと好きになりました。愛情表現が下手な女性大好きです。今後も『枕草子』を読み進め、自分なりの清少納言像を創り上げていきたいと思います。

しょんぼりなごん

参考文献

枕草子 新編日本文学全集 小学館 1997

・中世の結婚と離婚:史実と狂言の世界 高松百香 武蔵野大学能楽資料センター 2018

・日本史リブレット020 清少納言紫式部 和漢混淆の時代と宮の女房 丸山祐美子 山川出版 2015年